みんなそんなに気にしてないけど、見てくれてる人はいるというジレンマ。
例えば、洋服のタグがついたまま出かけてしまったとする。
本人は恥ずかしさで少し落ち込む。
その事を誰かに話す。
「私、洋服のタグつけたまま出かけちゃってさ〜…」
その人になんて言ってあげよう。
それは恥ずかしいねとか、まじうけるわとか、疲れてるんだねとか。
色々ある中で、多くの人が恐らく、「大丈夫。みんなそんなに気にしてないよ。」を選ぶのではないだろうか。
自分が思ってるより、周りは気にしていないと。自意識過剰だと。
さて話は変わって。
例えば、会社の給湯室を使った後、気になるから何気なしにきれいにする。
また汚いなとか思いながら、気づけば毎回。
ある日、あまり話したことなかった上司に「いつもきれいにしてくれてるよね。ありがとう」。
…って言われたんだ、という人に対してなんて言うだろう。
よかったねとか、いい上司だねとか、そもそも偉いねとか。
色々ある中で、多くの人が恐らく、「見てくれてる人はいるんだよ。」と言ってしまうのではないだろうか。
自分で思ってるより人はあなたを見ているんだよと。あなたの頑張りや気遣いはすごいと。
この二つの話は真逆でもなく次元も違う。全くの別物であり、共存もできる。
しかしうがった捉え方をしてしまうとたちまち矛盾になってしまう。
何かあるたびに、「もしかしたら見られてるかもしれない」と「どうせ誰も見ていない」の狭間で迷う。
この考え方がいつからか自分を縛って、打算的にさせた。
自分がどうありたいかをいつも問われてるみたいで。
そうありたいならこうするべきって、強迫観念すら感じる。
でもね、こうゆうのは呪いだから。解けてしまったら私じゃないから。
Mrs.GREEN APPLE "WaLL FloWeR" - 歌詞
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あさ